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「契きな かた身に袖を しぼりつゝ 末の松山 浪越さじとは」
後拾遺和歌集に載っている清原元輔の歌である。 というより,小倉百人一首で覚えた人のほうが多いだろう。
さて,なぜこのような和歌が地学のトリビアなのか。
実は,末の松山がどこか,本家争いがあるのだが,その両方とも地学と関係が深いのである。
岩手県二戸郡一戸町鳥越の浪打峠
旧奥州街道の浪打峠には,国指定の天然記念物「浪打峠の交叉層」がある。
第三紀中新世「末の松山層」のクロスラミナ(偽層)のことである。
ホタテ貝などの貝化石も多産する。
確かに海の貝が山の上に出ているのだから,浪が越えたと思ったに違いない。
山上の化石を「ノアの洪水」の証拠と見たヨーロッパ人より,よほど素直で科学的である。
(上写真:岩松 暉撮影)
宮城県多賀城市八幡の末松山寶國寺
多賀城市八幡の宝国寺裏にある標高10m程度の小さな丘が末の松山である。
ここに大津波にまつわる伝説がある。
昔,八幡に玉芝という女将の営む飲み屋があった。その酒が美味だというので,猩々が通ってくるようになった。
猩々の血が高価であることを知った玉芝は猩々を殺そうとたくらむ。
下女の小佐治は不憫に思って猩々に知らせたところ,猩々は「自分が殺されて空が黒くなったら,末の松山に逃げよ」と教えた。
果たして,猩々が殺された後,東の空が真っ黒になり,天地鳴動して大津波が襲ってきた。
助かった小佐治は尼になって犠牲者を弔ったという。
この大津波は貞観11年(869年)の大津波のことだと言われている。
(下写真:加藤碵一撮影)
2011年3月11日14時46分,東北地方太平洋沖地震が発生,多賀城市も津波の被害を受けたが,末の松山は辛うじて今回も助かった。
山裾は4m前後の津波に襲われたのである(出典:原口強・岩松暉著『東日本大震災津波詳細地図』古今書院刊)。
なお,仙台平野からは貞観津波堆積物も見出されている。
貞観津波は単なる伝説ではなく,実際に起こった事象だったのである。
防災教育の教材として活かしておくべきだった。
蛇足ながら,京都の祇園祭はこの貞観地震後,朝廷が御霊会を催したのに端を発しているという。
ちなみに山鉾の数66本は当時の国の数にちなんでいる。
【執筆者】 (2007年4月5日)
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