宮城県:末の松山
地質の特徴

津波,貞観の大津波

投稿者による写真とその説明:末の松山

【投稿者:岩松 暉氏,写真投稿者:Mr. Hirokazu Kato】

  • 多賀城市八幡の宝国寺裏に標高10m程度の小さな丘があります。
    これが百人一首の歌「契きな かた身に袖を しぼりつゝ 末の松山 浪越さじとは」(清原 元輔)で名高い末の松山です。
  • ここには大津波にまつわる伝説があります。
    昔,八幡の町に玉芝という女将の営む飲み屋がありました。 その酒が美味だというので,猩々がしばしば通ってくるようになりました。
    猩々の血が高価であることを知った玉芝は,猩々を殺そうとたくらみます。
    下女の小佐治は不憫に思って猩々に知らせたところ,猩々は 「自分が殺されて空が黒くなったら,末の松山に逃げなさい」と教えたそうです。
    果たして,猩々が殺された後,東の空が真っ黒になり,天地鳴動して大津波が襲ってきました。
    助かった小佐治は尼になって犠牲者を弔ったそうです。 この大津波は貞観11年(869年)の大津波 のことだと言われています。
  • なお,末の松山は岩手県二戸郡一戸町の 波打峠 との説もあります。
    ここには末の松山層という地層が分布しており,交叉層(クロスラミナ)が国の天然記念物になっています。
地形(標高段彩図)の三次元イメージ:末ノ松山付近[事務局作成]
‼マウスオーバー‼  地図上にマウスを乗せてください。産総研・地質調査総合センターの「1/20万 シームレス地質図(出典,下記)」を表示します。

2011年3月11日に発生した「東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)」による大津波により,
多賀城市も「砂押川」の右岸を中心として浸水しましたが,「末の松山」が立つ丘は標高が10m前後だったので,被害は無かったそうです。
末ノ松山の丘は,新第三紀中新世~鮮新世(約550万年前頃)に海の底に堆積した「泥岩」が,隆起した地層です。
【引用情報と参考情報】

【引用情報】

【参考情報】

【お断り】

  • 本ページは,旧GUPIのウェブサイト「地質情報ポータルサイト」で公開されていた「日本の地質案内」を基にして,事務局が「三次元地形図」,「三次元地質図」や若干の記事などを追加したものです。