沖縄県のガマと地下壕:田原の壕 No.52;那覇市田原2丁目
写真撮影:2006年3月~2013年2月

引用文献で「トラックが出入り出来るほどの・・」と記載された入り口。  撮影したのは2006年3月ですが,この当時はまだ開いていました。
天盤の「レンガ色」の部分は,火炎放射機による変色の跡です。 戦後61年でも消えていません。

坑口が開いていた時の状況です。 木々のためよくわかりませんが,のところに4箇所の坑口が存在しました(残りは写真外)。

坑口の近くでは,火炎放射によってレンガ色に変色していました。 その色は,戦後61年経っても変わっていないようでした。
床の凹凸は,1フィート運動の会などの発掘調査によるもので,天井の丸い部分は,戦後に剥離崩壊した跡です。 撮影:2006年3月。

天盤には当時の鉄釘が残っていました。 ここは,坑口から離れているためか,火炎放射痕はありませんでした。 撮影:2006年3月。

壁には,ツルハシでニービを掘削した跡がそのまま残っていました。  撮影:2006年3月。

対策工事が終了した後の状況です。  撮影:2013年2月。

(左)坑口からニービを投入した跡。 安息角度以上には入らないので,空洞の完全埋め戻しは不可能です。
(右)丁度,ベッドが置けるくらいのサイズに広げられていました。  撮影:2006年3月。
記事

・ニービが火炎放射機の高熱によりレンガ色に変色するということを,目の当たりにしてくれた地下壕でした。 この高熱で,焼死者が出ているそうです。

・2007年2月,那覇市は,エアーモルタル工法によって田原の壕を埋め戻しましたので,これらの写真を再び撮影することはできません。

引用文献[1フィート運動の会 活動報告]

調査日:1992年10月18日 No.52
 ・様 子:全長約200メートル。 入口4ヵ所、その内2ヵ所はトラックが出入り出来るほどの大きさ。 火炎放射の跡がひどく壕内はレンガ色になっている。
    「肥後 桜井昭一郎」と彫られた万年筆、「呉二補整二四二五 中山三郎」と彫られた石鹸箱を掘り出す。
    1フィート運動の会で92年10月より数回遺骨を収集、まだ残っている可能性がある。
 ・形 態:構築
 ・使用者:海軍
 ・遺 品:軍靴,茶碗,陶器の手榴弾,鉄の手榴弾,薬ビン,石鹸箱,ガラス棒,万年筆,焼けた衣類,歯ブラシ,砲弾の破片,ビールビン
 ・遺 骨:4~5体
 ・土 質:ニービ

『1フィート運動10周年記念誌』152ページには,この「田原の壕」に触れている宇地原 睦恵さんの手記が掲載されています。 少しだけ引用します。
『次に入ったのが田原の壕。 回りは民家が建ち並んでおり,入口はトラックも通れる程の大きさ,壁は火炎放射で焼かれレンガ色になっている。 50メートルぐらい入ると,黒っぽい地面に一面白い粒におおわれている所があった。 そこに足を踏み入れた時,国吉さんが「宇地原さん,あんたの足元は遺骨だよ,火炎放射で焼かれ粉々になった骨だよ」と言う。 私はあまりにも衝撃的な壕の光景に飛び上がり足の置き場に困り果てた。 当時人々は袋小路になったこの場所まで追い詰められ焼き殺されたのかと思うとやりきれない気持ちだった。』

関連情報

特にありません。

最終編集日:2020年3月17日