人もまた風景を作る ―そして風景は人とともに変わって行く― |
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人もまた風景を作る ―そして風景は人とともに変わって行く― 出典 : 風景あるくの記 pp.140-142. |
「風景をつくるもの」の中で自然が風景を作った時代は去り,人間が風景を作る時代になったことを書いた。 荒涼たる砂漠の中や,グリーンランドの氷原に,シベリアの大樹林帯にたちまち大工場が建設される今日では人間と大自然とはいよいよ深い関係になってゆく。 話は古いが江戸時代の隅田川では白魚がたくさん獲れた。 佃煮として将軍家に献上したくらいであったが,今は佃島も淋しくなってしまい,わずかに残る古い家並みが当時を偲ぶのみである。 それほど隅田川の水はきれいだった。 -中略- 団地風景は戦後の流行児で大都市近郊に発達している。 その姿態は一寸外国の建築らしいセンスがみられるが,肥桶の匂いの真中に立っているのはいかにも日本らしい。 白亜の高層建築が整然と並び周囲の風景とはおよそ非協和的な冷たさがあり,中に住んでいる人間までが風景と非協和的なところがあり,妙な優越感の錯覚にとらわれている。 小さい頃から家庭環境の中で,しっかりした社会生活を身につけずに成長した人々の集団といってよく,虚栄と疑心と競争が渦巻いている。 憎しみも悲しみも,ここでは規格化されてしまいそうである。 -後略- |
Kashmir 3Dによる「風景あるくの記」の再現 : 東京都世田谷区祖師谷地区の時代変遷 |
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人もまた風景を作る ―そして風景は人とともに変わって行く― 出典 : 風景あるくの記 pp.145-146. |
干拓地の広い風景の中に佇むとき,それが人間の作ったものと知りながら,その規模の大きさに驚く。 千葉県の九十九里のはじまろうとしているところ。旭町の北にある椿海(つばきのうみ)は関東では有名な干拓地で,寛文九年幕府より開発の許可が出るまでは大きな湖であったらしい。 このあたりの古事を書いた″波布里集″に東漸寺の由来というのがあり次のように書かれている。 「義員候の御尊骸は城の西北の江中に葬り奉る。 其砌は漫々たる椿湖の入湖なり,其後百有余年を経て元禄年間椿海開発なりしかば後水葬の辺りも漸く干潟となりし故・・・」。 義員候とは木曾義仲の後裔,文禄四年乙未三月十七日(1594)に亡くなっている。 この水葬の記事は当時の状態を物語っている。 たしかに,いまみると義昌の墓は数本の松の根方にあり周囲は広々とした水田があり,その向こうに椿海の縁をなす下総台地の平らな丘が見える。 この椿海の干拓も排水と塩害に悩まされつつ水路をつくり,莫大な労力をかけて少しづつ行われたものであったろう。 -後略- |
Kashmir 3Dによる「風景あるくの記」の再現 : 古椿海 |
三次元標高段彩図上でマウスクリックすると「20万分の1 シームレス地質図(出典,下記)」を表示します。 ダブルクリックで元に戻ります。![]() |
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Kashmir 3Dによる「風景あるくの記」の再現 : 推定・椿海の範囲 |
![]() (左)標高3.5mに水面だったと仮定した図です。 (右)同様に4.0mが水面だったと仮定した図です。 |
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【参考情報 : 日本の地形千景プラスで取り上げている 風景変遷 の例】 |
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(左)干拓によって生まれた見沼田んぼ 八代将軍の命により,見沼は干拓され「見沼田んぼ」となりましたが,耕作用の水は「見沼代用水」に (右)河跡湖の印旛沼 縄文海進のころ「印旛沼」は,現在の利根川河口を入り口とする「古鬼怒湾(香取の海)」という巨大な内湾の一部でした。 |
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(左)矢切の渡し(地形変遷) 「矢切の渡し」は,東京で唯一運行されている「和船による渡船」です。 (右)角筈~内藤新宿付近の地形変遷 「角筈村」に,「淀橋浄水場」が建設されたのは1898年のことでした。 |
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(左)みなとみらい地区~関内地区の地形変遷 「みなとみらい地区」は,現在の横浜駅から桜木町駅の沖合を埋め立てた土地のことを指します。 (右)姪浜と生の松原の地形変遷 住宅地と商業用地となっている「姪浜」は,かつては「早良炭田」だった場所の沖を埋め立てて作った土地です。 |
【引用情報と参考情報】 |
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2025年03月 |