人もまた風景を作る ―そして風景は人とともに変わって行く―
人もまた風景を作る ―そして風景は人とともに変わって行く― 出典 : 風景あるくの記 pp.140-142.

 「風景をつくるもの」の中で自然が風景を作った時代は去り,人間が風景を作る時代になったことを書いた。 荒涼たる砂漠の中や,グリーンランドの氷原に,シベリアの大樹林帯にたちまち大工場が建設される今日では人間と大自然とはいよいよ深い関係になってゆく。

 話は古いが江戸時代の隅田川では白魚がたくさん獲れた。 佃煮として将軍家に献上したくらいであったが,今は佃島も淋しくなってしまい,わずかに残る古い家並みが当時を偲ぶのみである。 それほど隅田川の水はきれいだった。 -中略-

 団地風景は戦後の流行児で大都市近郊に発達している。 その姿態は一寸外国の建築らしいセンスがみられるが,肥桶の匂いの真中に立っているのはいかにも日本らしい。 白亜の高層建築が整然と並び周囲の風景とはおよそ非協和的な冷たさがあり,中に住んでいる人間までが風景と非協和的なところがあり,妙な優越感の錯覚にとらわれている。

 小さい頃から家庭環境の中で,しっかりした社会生活を身につけずに成長した人々の集団といってよく,虚栄と疑心と競争が渦巻いている。 憎しみも悲しみも,ここでは規格化されてしまいそうである。 -後略-

Kashmir 3Dによる「風景あるくの記」の再現 : 東京都世田谷区祖師谷地区の時代変遷
  • 小田急電鉄小田原線祖師ヶ谷大蔵駅の開業は1927年4月1日です。 その頃の祖師谷他区は一面の桑畑といってもよいでしょう。
  • 太平洋戦争が終わり10年程度経過すると,成城学園前駅北側の東原と言っていたところには,戸建ての住宅地が建設されました。
  • 1956年頃,祖師ヶ谷大蔵駅の北側に,世田谷区内で初めての鉄筋コンクリート造りの集合住宅が建設されました。
    「祖師谷住宅」といい,当時大卒の初任給が約1万円の時代の家賃が5千円前後という,ホワイトカラー住宅と呼ばれたそうです。
  • 1970年代の後半になると,仙川が改修されていわゆる「三面張り」となり,上流の支流は「暗渠」となったようで,地図から消えてしまいました。
人もまた風景を作る ―そして風景は人とともに変わって行く― 出典 : 風景あるくの記 pp.145-146.

 干拓地の広い風景の中に佇むとき,それが人間の作ったものと知りながら,その規模の大きさに驚く。 千葉県の九十九里のはじまろうとしているところ。旭町の北にある椿海(つばきのうみ)は関東では有名な干拓地で,寛文九年幕府より開発の許可が出るまでは大きな湖であったらしい。 このあたりの古事を書いた″波布里集″に東漸寺の由来というのがあり次のように書かれている。

「義員候の御尊骸は城の西北の江中に葬り奉る。 其砌は漫々たる椿湖の入湖なり,其後百有余年を経て元禄年間椿海開発なりしかば後水葬の辺りも漸く干潟となりし故・・・」。

 義員候とは木曾義仲の後裔,文禄四年乙未三月十七日(1594)に亡くなっている。 この水葬の記事は当時の状態を物語っている。 たしかに,いまみると義昌の墓は数本の松の根方にあり周囲は広々とした水田があり,その向こうに椿海の縁をなす下総台地の平らな丘が見える。 この椿海の干拓も排水と塩害に悩まされつつ水路をつくり,莫大な労力をかけて少しづつ行われたものであったろう。 -後略-

Kashmir 3Dによる「風景あるくの記」の再現 : 古椿海
三次元標高段彩図上でマウスクリックすると「20万分の1 シームレス地質図(出典,下記)」を表示します。 ダブルクリックで元に戻ります。
  • 「椿海(つばきのうみ)」は,海跡湖(潟湖:ラグーン)です。
  • 縄文海進(約6000年前)のころ,関東地方の海面は今より18mほど高かった,という情報があり,これによると本図で着色されている範囲の全てが海面下ということになります。
  • その後,徐々に海面の高さは低くなり,その過程で太平洋だっ椿海は内湾から海跡湖となったのです。
  • 「木曽義昌候」は水葬された,と古文書に書かれており,その場所にはお墓があるそうです。 標高段彩図に図示しましたが,どうやら椿海本体ではなく,それに繋がっていた入り江だったように思えます。
  • 江戸時代に行われた干拓事業によって「干潟八万石」と呼ばれる新田が生まれましたが,その過程では甚大な人的災害(人災)が発生しました。 詳しくは下記の参考情報からアクセスしてください。
Kashmir 3Dによる「風景あるくの記」の再現 : 推定・椿海の範囲

(左)標高3.5mに水面だったと仮定した図です。            (右)同様に4.0mが水面だったと仮定した図です。
  • 「木曽義昌候」のお墓は現在史跡公園になっており,その付近の標高は約6mです。
  • 干拓後数百年が経過していることを勘案して,この土地は1m程度盛土がなされているだろうと勝手に考えました。
  • このため,標高5mが水面だった,と仮定した図を作成してみました。
  • 感覚的には,このあたりなのでは,と勝手に想像しています。
【参考情報 : 日本の地形千景プラスで取り上げている 風景変遷 の例】

(左)干拓によって生まれた見沼田んぼ 八代将軍の命により,見沼は干拓され「見沼田んぼ」となりましたが,耕作用の水は「見沼代用水」に
  よって確保されました。見沼代用水は,行田市の武蔵大堰から取水されており,途中で「西縁」と「東縁」に分流されています。

(右)河跡湖の印旛沼 縄文海進のころ「印旛沼」は,現在の利根川河口を入り口とする「古鬼怒湾(香取の海)」という巨大な内湾の一部でした。
  香取の海は,現在の渡良瀬遊水地の近くまで広がっていたので,当然印旛沼のあたりは汽水域ということになります。

(左)矢切の渡し(地形変遷) 「矢切の渡し」は,東京で唯一運行されている「和船による渡船」です。
  資料によると,始まりは1616年(元和2年)にさかのぼります。

(右)角筈~内藤新宿付近の地形変遷 「角筈村」に,「淀橋浄水場」が建設されたのは1898年のことでした。
  この付近の甲州街道沿いに敷設されていた「玉川上水」を浄化することが,最大の理由です。

(左)みなとみらい地区~関内地区の地形変遷 「みなとみらい地区」は,現在の横浜駅から桜木町駅の沖合を埋め立てた土地のことを指します。
   横浜が開港する以前は,湾口に東の山手地区から延びる「砂州」が延びていただけの寒村でした

(右)姪浜と生の松原の地形変遷 住宅地と商業用地となっている「姪浜」は,かつては「早良炭田」だった場所の沖を埋め立てて作った土地です。
  一方,「生の松原」は,「室見川」などから搬出された砂が,沿岸流で運ばれてできた「砂浜」です。

【引用情報と参考情報】

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