遭難者候補者と遭難予定者 ―山行きは厳しいものだから・・・―
遭難者候補者と遭難予定者 ―山行きは厳しいものだから・・・― 出典 : 風景あるくの記 pp.99-103.

 山の遭難事故は後を絶たない,次から次へと悲惨な事故が起こっている。 いや起こしている,といった方が適当かもしれない。 一つの遭難事故があると,必ず関係者の間で,批判やら反省談がニュースとして扱われる。 気の毒なのは,自分の息子は無理に山の友達に誘われたのだと,泣き叫ぶ親のいることは何とも悲しいことだ。

 昭和三十五年一月「岳人」に北大山岳部OBの林和夫氏が遭難の多い理由を次のように書いている。 登山者の側の問題として,(一)年期不足のこと,(二)頭でっかちのこと,(三)交通が便利になり山が浅くなったこと,(四)装備の進歩,(五)合理的で余裕が少ない,(六)生命の軽視,などで,今まで新聞雑誌に書かれたものの中では一番よくまとめていると思う。

 このうち(五)の合理的で余裕が少ない,ということは現代生活のしきたりをうっかりすると,山に持ち込む危険をいっているのだと思う。 この六項目中最も重要なのはこれであると思う。 ただ林氏とは議論の観点が多少異なるかも知れないが・・・・,結論を先にいうと「日常生活の心構え」ということである。 「人生をどのように見,どう考えるか」ということにある。 -中略-

 井上 靖氏「氷壁」の中の魚津 恭太は滝谷D沢で落石に襲われた。 引き返せばよかったのだが,二人の女性のことが頭に浮かんだ,魚津は迷った。 この悩む心理状態が氏の見事な文章によく表れている。
  「ガスの流れの中に魚津は立ち尽くしていた。-中略- 自分はこの困難な危険の多い山行きを思い立ったのではないか。・・・」

 覚悟を決めて前進した。 ガスと無く石のひびきの中を。 そして魚津の遺書には,
  「コノ遭難ノ原因ハ明ラカナリ。-中略- 一言ニテ言エバ無謀ノ一語ニツク・・」とあるからには,私にいわせれば魚津恭太も弱かった。

Kashmir 3Dによる「風景あるくの記」の再現 : 北アルプスと滝谷
  • 「滝谷」は,北アルプスの飛騨側にあって, 涸沢岳~北穂高岳~南岳が源頭の極めて険しい谷です。
  • 蒲田川上流の右俣沢から更に東に分かれる支谷で,出会付近の地質は 深いところでゆっくりと冷えて固まった花崗閃緑岩類(滝谷花崗岩)なのですが,その年代が新生代 第四紀 更新世前期(約200万年前頃)と極めて新しいことです。 出来立てのほやほやですね。
  • 「雄滝」付近からしばらくは,同年代頃のデイサイト・流紋岩の貫入岩です。 この岩石も地中に留まったまま固まったマグマです。
  • ところが,涸沢岳~北穂高岳~南岳,更に槍ヶ岳へと続く稜線は,同年代のデイサイト・流紋岩の「大規模火砕流(溶結凝灰岩など)」となっています。 約175万年前に起きた「カルデラ噴火」の残滓と言ってもよいでしょう。
  • いずれの地層も,海面すれすれか海底下の活動でしたが,その後に起きたプレート運動のために,東側に傾きつつ隆起するという運動が始まり,今の高さまで持ち上がりました。
Kashmir 3Dによる「風景あるくの記」の再現 : 滝谷とD沢
  • 井上靖作「氷壁」で,主人公が登攀したのが「滝谷D沢」です。 滝谷の場合,登山家の間では,中流にある「滑滝(ナメリ滝)」の上流の枝谷について,稜線に向かって左側から「A沢」,「B沢」,・・・,「F沢」と呼ぶ習わしとなっています(戦前から)。
  • 問題のD沢は,涸沢岳の北西斜面に突き上げる谷で,滝谷の本流と言ってもよいくらいです。
  • 滝谷には落石がつきもの,と現代も言われていますが,カルデラ噴火とその後に起きた隆起運動により,岩石に巨大な力が掛かり,結果的に無数の亀裂が入り込んだためと考えられます。
  • 滝谷の南側にある白出谷の谷底には,滝谷花崗岩(正しくは花崗閃緑岩類)の岩屑が堆積しており,豪雨のたびに土石流となって押し出されてくることことから,この谷の名が付けられました。
  • なお,滝谷出合の左側に藤木レリーフが設置されています。 これは,1928年9月に滝谷を初登攀した藤木九三の記念碑です。
【地形断面図 : 滝谷】
  • 試しに,滝谷出合からD沢を経由して涸沢岳山頂付近までの地形断面図を作成してみました。
  • 出合~山頂間の平均傾斜は29゜強となかなかのものですが,滑滝(ナメリ滝)より上流に限定すると約36゜もあります。
    この36゜という傾斜はスキージャンプ台のそれに匹敵するほどで,如何に急であるかがわかります。
【引用情報と参考情報】

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