山,もっと端的にいえば尾根と谷の組み合わさったもの,また急斜面の組み合わせともいえる。 そして尾根と谷が一ヶ所で集まる部分に高い頂上をもった独立峯がある。 このような峯には大てい名前が付けられて,他の尾根と区別されている。 というよりも区別したいためにわれわれの祖先が名付け親になったのであろう。
風土記に出てくる山の名を見ると,いろいろとその名付けた由来を記している。
大法山(おおのりやま) 品太の天皇,此の山に大きみ法を宣りたまひき,故大法山という。 [播磨国風土記,揖保郡]
鈴堀山(すずほりやま) 品太の天皇,巡り行でまし時,鈴,此の山に落ちき。求むれども得ず。乃ち,土を掘りて求めき。
故鈴堀山という。 [播磨国風土記,詫賀郡]
褶振の峯(ひれふりのみね) 大伴の狭手彦の連,発船して任那に渡りし時,弟日姫子,此に登りて,褶を用ちて振り招きき。
固りて褶振の峯と名づく。[肥前国風土記,松浦郡]
また出雲国風土記の中には次のような簡単なものもある。
長柄山(ながらやま) 郡家の東南のかた一十九里なり。 [出雲国風土記,神門郡]
鳥上山(とりかみやま) 郡家の東南のかた三拾五里なり。 [出雲国風土記,仁多郡]
しかしなかには,
高麻山(たかさやま) 郡家の東南の正北一十里二百歩なり。 高さ一百丈,周り五里なり。 北の方に樫,椿等の類あり。
東と南と西と三つ方は,竝びに野なり。 古老の伝えていえらく,神須佐能袁命の御子,青幡佐草日子命,
是の山の上に麻蒔き殖ほしたるひき。 故,高麻山という。 [出雲国風土記,大原郡]
とあり中々丁寧に説明が加えられている。 しかし常陸国風土記や播磨国風土記に比べて簡単なものが多いのはどういう理由なのかわからない。
昔の人が山に対して持っていた感情は信仰とおそれであったようだ。 しかし次の常陸国風土記筑波郡のところには,今日のハイキングのはじまりともいえる楽しい記録がみられる。
筑波山(つくはやま) それ筑波岳は,高く雲に秀で,最頂は西の峯崢しく嶸く,雄の神と謂ひて登臨らしめず,唯,
東の峯は四方磐にして,昇り降りは峡しく屹てるも,其の側に泉流れて冬も夏も絶えず。 坂より東の諸国の男女,
春の花開くる時,秋の葉の黄づる節,相携ひ駢闐,飲食を斉賚て,騎にも徒にも登臨り,遊楽しみ栖ぶ。
[常陸国風土記,筑波郡] -後略-
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