移り変わる海岸 ―天女の素足がふれた砂浜も波で運ばれたもの―
移り変わる海岸 ―天女の素足がふれた砂浜も波で運ばれたもの― 出典 : 風景あるくの記 pp.72-73.

 陸地は変動すると簡単にいっても,その動きがよほどはげしくないかぎり気の付かない場合が多い。 もし,その影響が海岸線付近にまで及ぶと,人は生活問題に関係してくるので,敏感である。 海岸線が沖に行ってもまた削られてきても,直ちに生活にひびく。 もちろん海岸が砂地であるか,また岩石であるかによってひびきかたが多少違うが。

 このように変化している海岸は日本中至るところにみられる。 そのうち,まず削られている海岸について私が調べたことは次の通りであった。

 千葉県飯岡(いいおか)町の東に,屛風ヶ浦(びょうぶがうら)と呼ぶ海食崖(Sea Cliff)が,銚子の南犬吠(いぬぼう)付近まで続いている。 この海食崖は主に硬い第三紀層の頁岩からできているにもかかわらず,年々海の力のために削られている。

 しかし,一体何年間に,どのくらい削られたのか,はっきりとした事実がわからないので,明治二十三年の古い実測図をもとにして測量を開始した。 その結果,もっともひどいところは,飯岡町の南の砂浜で六十年間に150メートルが削られていることがわかった。

 硬い頁岩の絶壁(海食崖)では二〇~三〇メートルであるが,削り取る力は恐ろしい程強く,現在もなお,この力は休むことなく続いている。

 飯岡助五郎(いいおかすけごろう)の墓も,銚子街道も,それがもとあったところは海中になっていて,現在のところは移し変えられたものである。 土地の古老の話によれば,この海の向こうに競馬場と七つの村があったと伝えられている。

Kashmir 3Dによる「風景あるくの記」の再現(1) : 下総台地東端部と屛風ヶ浦
三次元地形図上でマウスクリックすると「20万分の1 シームレス地質図(出典,下記)」を表示します。 ダブルクリックで元に戻ります。
  • 千葉県北部の大部分を占めている「下総台地」が,東北の端で太平洋に断ち切られてできたのが「屛風ヶ浦」です。
  • 屛風ヶ浦は,銚子市の名洗町から旭市の刑部岬まで続くいており,その長さは約10kmで断崖(海食崖)の高さは約30m~約60mとされています。
  • 本図において,南西端に近い「磯見川」とその東側の「不詳川」は,南流して太平洋に直接注ぎますが,それより銚子側の多くの河川は北流して「利根川」に合流します。 この北流する河川の「分水界」は実に「海食崖」の真上にあります。このことから, 元々の分水界は南側の現太平洋のどこかにあって,海食によってこの位置にまで後退した,と考えるのが自然です。 かつての下総台地は,もっと広かったことになりますね。
  • 屏風ヶ浦の基盤は「犬吠層群」といいますが,地質図などではその表記に微妙な差がみられます。
    ① 産総研・1/20万 シームレス地質図 : 地層 ; 堆積岩[海成層],年代 ; 更新世のジエラシアン期~前期チバニアン期
    ② 千葉県・5万分の1 表層地質図『銚子』(昭和60年3月) : 地層 ; 半固結堆積物(泥岩),年代 ; 新第三紀鮮新世
  • 『風景あるくの記』では,屛風ヶ浦の地質を「硬い頁岩」と記載していますが,表層地質図では「半固結堆積物の泥岩」と表記されています。 矛盾があるようですが,今となっては確かめるすべはありません。
  • 堆積岩の年代について,千葉県発行の表層地質図と『風景あるくの記』では矛盾がありませんが,より新しく公開されたシームレス地質図では更新世のみとされています。 地質年代に関する新たな知見があったのかもしれません。
  • 犬吠層群の上位には,古東京湾で堆積した「香取層(下総層群に相当)」と「関東ローム層」が「不整合」に覆っています。
Kashmir 3Dによる「風景あるくの記」の再現 : 海岸線の後退について
三次元地形図上でマウスクリックすると「1894年~1915年発行の5万分の1 古地形図(出典,下記)」を表示します。 ダブルクリックで元に戻ります。
  • 図右側の赤マークは参照用の固定点です。 地形図を切り替えても同じ座標値を保っています。
  • 1894年は明治27年で,1915年は大正4年になります。 従って,『風景あるくの記』で測量した時に用いた古地形図とそれ程と違わないでしょう。
  • 二枚の地形図を比較してみると,明らかに明治~大正時代の海岸線の方が沖にあることがわかります。
「風景あるくの記」の再現 : 屛風ヶ浦の写真と海岸線の後退速度について

(左) 屛風ヶ浦の現況。 海食崖の前面には,大量のテトラポットが敷き詰められていて,防波堤の役目を果たしている。
(右)赤マーク地点の海岸後退速度を推定してみました。
  • 「古地形図」の発行年は1894年~1915年と公表されていますが,この場所の地形図が実際何年だったのかまでは公表されていません。
  • 今仮に古地形図の発行年を平均値の1905年とし,新地形図のそれを2020年とするとその差は115年となります。
  • 地形図の比較から,海岸線の後退距離を約90mと推定すると,後退速度は1年間に約0.8m(90/115)と計算できます。
    従って,平安時代の海岸線は1kmほど沖にあった,と推定することができます。 競馬場や七つの村が消滅するわけです。
  • 最近では「離岸堤」などが建設され,海岸線(海食崖)の後退速度はかなり抑制されているようです。
移り変わる海岸 ―天女の素足がふれた砂浜も波で運ばれたもの― 出典 : 風景あるくの記 pp.76-77.

 静岡県の久能(くのう)山の南側は,海食で削られた急崖となっている。 背後の山々の間のわずかな砂浜が,そこに住む人々の生活の土地となっている。 そこに根古屋,増・・・等の集落が立地している。 このようなところにも,安住の地を求めねばならなかった昔の人たちは,この厳しい自然と対決して,苦しい生活を送ったことと思われる。

 現在は,太平洋の黒潮がもってくる暖かい空気と日光が,この集落の人たちに石垣苺を栽培させている。 その販路は広い。 久能山の東には駿河湾に向かって長くのびた砂嘴がでて,その先端はいくつかに分かれ,みほといわれているが,現在よくみるとしほになっている。

 中学や高校のどの教科書にも久能山が海食によって削られ,海流によって東に運ばれたのが,三保の松の地形だということになっている。 最近の研究によっては,いわゆる砂嘴ではなく,現在の形に似た基岩があり,その上に砂が堆積したという説もある。 とにかく,この長い砂嘴が時間とともに伸びたことは確かである。 いま一寸古い話遡ってみると,駿河の国風土記に次のような記録がみられる。

風土記を案ずるに,古老伝へて言はく,昔神女あり,天より降り来て,羽衣を松の枝に曝しき・・・。

 とあり,その風土記前文に「三保松原」は,駿河国有渡郡有渡浜にありて・・・」とあるが,平安朝では有渡浜はあっても三保の名はまだ出ていないといわれている。 有渡は有度山(久能山)の近くということになる。 とすると,天女が羽衣を松の枝に曝したのは現在の三保の松ではなく,それよりも四キロも西にもどった駒越のあたりか,また原・折戸の付近の松林ではなかったか。 注記 4km地点とは,腰越ではなく根古屋の間違いと思われます。


第32図 久能山と三保の松の砂嘴との関係
『風景あるくの記』 p.77.
Kashmir 3Dによる「風景あるくの記」の再現(2) : 久能海岸と三保の松砂嘴
三次元地形図上でマウスクリックすると「20万分の1 シームレス地質図(出典,下記)」を表示します。 ダブルクリックで元に戻ります。
  • 「有度丘陵」は安倍川河口の海岸平野が,ドーム状に隆起したものと推定されています。 海岸付近などの低地を除いて,丘陵の大部分は第四紀更新世チバニアン期(約70万年~約12万年前)の「海成段丘面(堆積物)」で覆われています。
  • ドームの頂点が「日本平駅」や「有度山頂」付近と南に偏っているため,北に向かっては緩やかな斜面が続いています。
  • 一方,丘陵の南斜面では海の侵食(海食)があったことと,大雨の降る方向性?などで,北面に比べて侵食が進み,団扇のような侵食地形が数多く存在します。 「バッドランド」といってもよいかもしれません。
  • 河川そのものは短いのですが,河床勾配が急なため侵食・運搬力が大きく,土石流のために海岸では多くの「天井川」が存在しました。
  • 天井川を通り抜けて運ばれた土砂は,東向きに流れる沿岸流によって運ばれ,分離砂嘴を形成したのでしょう。
Kashmir 3Dによる「風景あるくの記」の再現 : 久能海岸と三保の松砂嘴

国土地理院の分類では,この砂嘴は「分離砂嘴」とされています。 その最大のものは「野付崎(半島)」です。
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