伊奈は七谷糸引くけむり ―伊那の段丘―
伊奈は七谷糸引くけむり ―伊那の段丘― 出典 : 風景あるくの記 pp.67-70.

 この天竜川の上流にある細長い谷は伊那谷(いなだに)と呼ばれ,三州街道・遠州街道・岡谷街道など鉄道開通前の主要な交通路が通り,藤村の「夜明け前」の背景となり,井上靖著「風林火山」の舞台ともなっている。 そして,塩と魚はこの街道を通り信州に入って行った。

 伊那谷の西のほぼ南北に長い木曽山脈の東側は,天竜川との間に広々とした台地が辰野からはるか南の飯田まで広がっている。 夏はとうもろこし・りんご・桑畑・麦畑となり一面の緑の野が広がる。 冬は茫々として果てしない雪の原となり,伊那谷を通る風がヒューヒューと鳴り渡るところでもある。 -中略-

          勘 太 郎 月 夜 歌      佐 伯 孝 夫 詩
     影か柳か勘太郎さんか 伊那は七谷糸引くけむり
     捨ててわかれた故郷の月に しのぶ今宵のほととぎす  -中略-

 「伊那は七谷糸引くけむり」,これがこの歌の地形学的さわりである。 このさわりの地形学の説明をしてみよう。 段丘のうしろの木曽の山々から続いている深い谷は段丘の面にV字形に入り込み,平らな面を刻んでいる。 谷の深さが五十メートル以上のところもある。

 この地形をこの地方では田切(たぎり)の地形と呼んでいる。 それは段丘の平らな面が畑地になっており,深く入り込む谷は畑地を裂きへだてているように見えることからつけられた名前らしい。 -中略- 実際に太田切(おおたぎり)川,与田切(よだぎり)川の名前がついているところもある。 大小のこのような谷がたくさんあるから伊那は七谷という言葉の説明がつく。 -中略-

 このような地形では日の出前や日没近くになると,谷の底と段丘面の高さの気温はかなりの差ができて,朝夕は特にひどく,冷えた空気は深い谷の底に沈んでじっとしている。

 高さと気温は逆の関係になるのが普通なのに,地上よりも高い方が気温が低くなってしまう。 気象学でいう逆転現象が起きる。 そして背後の山から冷たい空気の流れが深い谷を通ってやってくる。 すると,段丘面の高さにある比較的暖かい空気とは温度の差が次第にひどくなり霧が発生する。 霧はしずかに深い谷を低い方に流れてゆく。 これが朝夕の炊事の煙と一緒になり,墨絵のように黒い山々を背景にして,あちらの谷こちらの谷から糸を引くように細く長く流れる。 -後略-

Kashmir 3Dによる「風景あるくの記」の再現 : 伊那谷
三次元地形図上でマウスクリックすると「国土地理院・都市圏活断層図(出典,下記)」を表示します。 ダブルクリックで元に戻ります。
  • 200万年ほど前,西側の「木曽山脈(中央アルプス)」が隆起し始め,東側の赤石山脈との間に伊那盆地(原形)が形成されました。
  • 隆起によって木曽山脈の東側を流れる天竜川の各支流の「河床勾配」が急傾斜化し,結果的に「土石流」が頻繁に発生しました。
    押し出された土砂により,盆地内には広い「扇状地」が形成されました。
  • 隆起が続くことにより支流の「下刻侵食」は常に活発であって,自身が作った扇状地を削った結果,扇状地は「河成(河岸)段丘=古扇状地」へと変化しました。
  • 木曽山脈の隆起運動に伴う岩盤のひずみを開放するために,「木曽山脈山麓断層」,「田切断層」などの西側隆起の活断層群が形成されました。
  • 扇状地・段丘面の形成時期よりも,断層運動の方が新しい場合には,「段丘崖」そっくりの「断層崖」が形成されている場所があります。
  • このような理由により,伊那谷の河成段丘(河岸段丘)は,右岸側(木曽山脈川)に広く発達しています。
  • ただし,東の赤石山脈から流れ出ている「三峰川」は,上流に「甲斐駒ヶ岳」が存在するなど流域面積が広く,広大な扇状地を形成しました。
  • 注記 『風景あるくの記』では,伊那の谷は「段丘の面にV字形に入り込み」と記されていますが,地形データによると,伊那谷の段丘面にできている谷の多くは「平底谷(床谷)」と呼ばれることもある「凹字型」の谷で,幅の広い谷底には「氾濫原」ができているものもあります。
Kashmir 3Dによる「風景あるくの記」の再現 : 小沢川・小黒川流域
  • 「小沢川」と「小黒川」は,「伊那谷」の最も北に位置する天竜川の大きな支流です。
  • 小沢川の特徴は,「古扇状地(現河成段丘)」の扇頂部が,地形図での計測で100mを超える深い谷を形成していることです。
    この古扇状地は更新世(数十万年前~数万年前)に古小沢川が作ったものなので,更新世後期以降にそれを100m以上も下刻するほどの隆起が生じたことを示しています。
  • 小黒川の場合は,2本の「古河道(古流路)」が扇頂部に存在することです。 木曽山脈側の隆起の過程で,河道が南に移動してきたのです。
  • いずれの支流とも,天竜川に接近するにつれ「段丘崖」で新しい段丘へと移り変わりますが,途中に1箇所だけ「小黒川断層」による「断層崖」が出現します。
  • 小黒川断層は西側隆起の「活断層」で,木曽山脈が隆起するが伊那谷は隆起しないという境界といってもよいでしょう。
Kashmir 3Dによる「風景あるくの記」の再現 : 三峰川流域
  • 天竜川の大いなる支流の一つである「三峰川」は,南アルプスの「仙丈ケ岳」の南西側斜面を源流とし,更に「甲斐駒ヶ岳」の西側斜面や「杖突峠」の南側斜面も源流域とするほどの大河です。
  • これらの源流域は「中央構造線」東側の「三波川変成帯(付加体)」ですが,流下する途中で中央構造線を通過し,「領家変成帯(非付加体)」へと流れるのです。
  • いずれの変成帯とも極めて脆い岩石で構成されているため,豪雨時には大規模な土砂崩れ(表層・深層崩壊)が生じ,大量の「土石流」となって伊那谷に押し寄せたことでしょう。
  • 古扇状地が完成(?)した後で大地の変動が起き,せっかく積み上げた扇状地を削り取る運動が生まれました。 その結果,現在では幅広の「平底谷(床谷)」が形成されています。
  • 川幅(河道と氾濫原)を見比べると,支流の三峰川の方が本流の天竜川よりも幅広であって,どちらが本流かわからないくらいです。
Kashmir 3Dによる「風景あるくの記」の再現 : 太田切川流域
  • 「太田切川」の源流は,「木曽駒ヶ岳」の東側斜面です。 この辺り一帯は「木曽駒花崗岩」と呼ばれている「花崗閃緑岩類」で構成されています。
  • 花崗閃緑岩類は風化によって砂の一種である「マサ」へと変化しますが,マサは豪雨のたびに太田切川を流れ下るので,天竜川の右岸域に広大な古扇状地を形成したのです。
  • 太田切川の特徴は,扇頂部に深い谷を作らず合流部に近づくほど谷が深くなっている,ということでしょうか。
  • 太田切川が天竜川に合流する少し上流側に,川幅の狭い場所があります。 ここは,かつて古太田切川が流れていた場所,と考えられています。
  • 従って,比較的侵食に強い土砂が堆積している場所なのかもしれません。
Kashmir 3Dによる「風景あるくの記」の再現 : 中田切川・与田切川流域
  • 「中田切川」の特徴は,天竜川との合流部付近の氾濫原が広がっていることです。 何らかの理由で「側方侵食」が強大化したためと考えられます。
  • 「与田切川」の特徴は,「平底谷」が形成されると共に,平底の部分が扇頂部を通過して木曽山脈の中まで入り込んでいることでしょう。
  • 「子生沢川」は木曽山脈の谷と繋がっていない,河成段丘の中が源流の支流です。 しかし,「谷頭侵食」の力はものすごく,深い「V字谷」を形成しています。
  • これらの原動力となったのが西側隆起の「田切断層(活断層)」による運動です。 河成段丘と見まごうばかりの「断層崖」を形成しています。
Kashmir 3Dによる「風景あるくの記」の再現 : 片桐松川流域
  • 本図の中で最も目立つ崖は,「田沢川」左岸で100mを超える高さを持つ 「段丘崖」です。
    「都市圏活断層図」によると,「上位段丘面」と現河床との標高差となります。
  • 「片桐松川」の合流部は,天竜川の川幅が狭くなっていると共に東側(図右側)に寄せられています。
    太田切川の合流部近くと同じ傾向で,片桐松川の押し出した土砂の量が半端なかったことを示しているようです。
  • また,片桐松川の特徴としては,扇頂部近くの高速道路と周辺は,深い谷が発達していないことでしょう。
    この付近は,各段丘面の境界である段丘崖の高さが低くなっていますが,何か関係でもあるのでしょうか。
Kashmir 3Dによる「風景あるくの記」の再現 : 松川流域
  • 「伊那谷」の最南部の段丘面を下刻侵食と側刻侵食しているのが「松川」です。 その特徴は幅広の「氾濫原(平底谷)」でしょうか。
    そして,天竜川の氾濫原を狭めるほどの大量の土砂を押し出したことでしょう(図中,松川の挿字付近は,松川の運んできた土砂でしょう)。
  • 「毛賀沢川」と「新川」は,前出の「子生沢川」と同様に,段丘面(古扇状地)に源流域があります。 下流域に,活断層である「川路竜丘断層」による「断層崖」が生じるほどの隆起が両河川の上流域で発生したため,下刻侵食力が増したのでしょうね。
【引用情報と参考情報】

【引用情報】

  • 川崎 逸郎(故人):風景あるくの記,pp.67-72.,(有)正文館,昭和35年6月5日,第1刷 (絶版,出版社不明)
  • 国土地理院 > 地理院タイル(地形図,5m・10mDEM)  国土地理院利用規約
  • 国土地理院 > 都市圏活断層図(池田 安隆・澤 祥・中田 高・松多 信尚,2003年,1:25,000 都市圏活断層図「伊那」,
      池田 安隆・澤 祥・鈴木 康弘・松多 信尚,2002年,1:25,000 都市圏活断層図「赤穂」,
      鈴木 康弘・池田 安隆・澤 祥・田力 正好・廣内 大助,2002年,1:25,000 都市圏活断層図「飯田」,
      岡田 篤正・鈴木 康弘・中田 高,2003年,1:25,000 都市圏活断層図「時又」)

【参考情報】

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