この天竜川の上流にある細長い谷は伊那谷(いなだに)と呼ばれ,三州街道・遠州街道・岡谷街道など鉄道開通前の主要な交通路が通り,藤村の「夜明け前」の背景となり,井上靖著「風林火山」の舞台ともなっている。 そして,塩と魚はこの街道を通り信州に入って行った。
伊那谷の西のほぼ南北に長い木曽山脈の東側は,天竜川との間に広々とした台地が辰野からはるか南の飯田まで広がっている。 夏はとうもろこし・りんご・桑畑・麦畑となり一面の緑の野が広がる。 冬は茫々として果てしない雪の原となり,伊那谷を通る風がヒューヒューと鳴り渡るところでもある。 -中略-
勘 太 郎 月 夜 歌 佐 伯 孝 夫 詩
影か柳か勘太郎さんか 伊那は七谷糸引くけむり
捨ててわかれた故郷の月に しのぶ今宵のほととぎす -中略-
「伊那は七谷糸引くけむり」,これがこの歌の地形学的さわりである。 このさわりの地形学の説明をしてみよう。 段丘のうしろの木曽の山々から続いている深い谷は段丘の面にV字形に入り込み,平らな面を刻んでいる。 谷の深さが五十メートル以上のところもある。
この地形をこの地方では田切(たぎり)の地形と呼んでいる。 それは段丘の平らな面が畑地になっており,深く入り込む谷は畑地を裂きへだてているように見えることからつけられた名前らしい。 -中略- 実際に太田切(おおたぎり)川,与田切(よだぎり)川の名前がついているところもある。 大小のこのような谷がたくさんあるから伊那は七谷という言葉の説明がつく。 -中略-
このような地形では日の出前や日没近くになると,谷の底と段丘面の高さの気温はかなりの差ができて,朝夕は特にひどく,冷えた空気は深い谷の底に沈んでじっとしている。
高さと気温は逆の関係になるのが普通なのに,地上よりも高い方が気温が低くなってしまう。 気象学でいう逆転現象が起きる。 そして背後の山から冷たい空気の流れが深い谷を通ってやってくる。 すると,段丘面の高さにある比較的暖かい空気とは温度の差が次第にひどくなり霧が発生する。 霧はしずかに深い谷を低い方に流れてゆく。 これが朝夕の炊事の煙と一緒になり,墨絵のように黒い山々を背景にして,あちらの谷こちらの谷から糸を引くように細く長く流れる。 -後略-
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