山手と下町 ―湯島通れば思ひだす―
山手と下町 出典 : 風景あるくの記 pp.55-56.

 青梅から東にのびて,北は入間川南は多摩川,東は隅田川の間に広々としてのびる武蔵野の原に谷が入組み,その谷は東に行くにしたがって次第に深くなっていく。 その武蔵野の東のはずれに発達した江戸の町は,このような地形に由来する地名が非常に多い。

 半七捕り物帖や,銭形平次に出てくる地名が,そのまま現代に残っている。 台地の上の町には小日向台町,高輪台町・・・などの台町があり,谷の部分では市ヶ谷,茗荷谷,鶯谷・・・,台町と谷町の中間の坂によるところは神楽坂,菊坂・・・となっている。 全体として,山の手と下町という大ざっぱな分類が後になって起きてきた。 

Kashmir 3Dによる「風景あるくの記」の再現 : 東京,山の手と下町(北部)
三次元地形図上でマウスクリックすると事務局が作成した「標高段彩図」を表示します。 ダブルクリックで元に戻ります。
  • 本図で見る限り,「上野駅」から北側では高さが20m超の急崖で台町と下町が区切られています。
  • 一方,「本郷台」から南に下ると「駿河台」となりますが,その南側の大手町にかけては比較的緩やかな坂となっています。
  • 「本郷台」付近の標高は概ね20m~25mであるのに対し,西側の「曙橋」付近では30m~35mと10m程高くなっています。
  • こうしてみると,『風景あるくの記』の作者が指摘しているように,江戸城は当時の江戸湾に接して建設されたことがわかります。
山手と下町 ―湯島通れば思ひだす―  出典 : 風景あるくの記 p.57.

 文京区の地図を開いてみると真砂町は,本郷三丁目の坂を西に下りてから春日町までの北よりのあたりで,その北に菊坂町がある。 地形からみると真砂町一帯は菊坂町と同様坂町にあたる。 武蔵野台地の一部が本郷三丁目を通り駿河台下で終わる。 これが,本郷台と呼ばれているものである。

 その東縁は滝野川から上野公園の不忍池の西から湯島天神町,神田明神へと崖をつくっている。 この崖は本郷台の西にくらべ割合に急斜面でこれに切通しをつけて下町(谷町)と台町への通路としている。 湯島天神はこの崖の端にあり下町を眼の下に見下ろす絶景の場所で,江戸時代のリクリエーションセンター(またはハイキングセンター)の一部であった。 現在の東京都内でもこのような場所が非常に多く残っている。 ある箇所は寺院が,他の場所は神社がその地点を占めている(もちろんこれは江戸の都市計画の中に入れられたものだった)。

Kashmir 3Dによる「風景あるくの記」の再現 : 昭和初期の古地図
三次元古地形図上でマウスクリックすると,国土地理院の「標地理院タイル(出典,下記)」を表示します。 ダブルクリックで元に戻ります。
  • 「泉 鏡花」作の『婦系図(おんなけいず)』が映画化されるにあたり,「佐伯 孝夫」が主題歌として作詞した『湯島の白梅』は,「本郷切通し(切通坂)」が歌の舞台となっています。 曰く,『青いガス灯境内を 出れば本郷切通し』  境内とは「湯島天満宮(天神)」です。
  • 『風景あるくの記』では,「山手(台町)と下町」の例としてこの主題歌を紹介すると共に,その背景となった「本郷三丁目界隈」の風景について解説を加えています。
Kashmir 3Dによる「風景あるくの記」の再現 : 東京,山の手と下町(南部)
三次元地形図上でマウスクリックすると事務局が作成した「標高段彩図」を表示します。 ダブルクリックで元に戻ります。
  • 「高輪台」の辺りの標高は,25m前後ですが,現在の「北品川駅」に向かうにつれ高度を下げ,緩やかに「目黒川」に達しています。
  • この目黒川の特徴の一つが「非対称谷」である,ということです。 「目黒駅」から上流の左岸側(図右側)の崖は急ですが,右岸側(図左側)は崖という程のものは無く,ほぼ緩斜面で構成されています。
    洪水時の「攻撃斜面」と「滑走斜面」の関係かもしれませんし,「小野(1978)」による「霜柱侵食」であるのかもしれません。
【引用情報と参考情報】

【引用情報】

【参考情報】

【お知らせ】